夢が全てを包む。 明るい希望も、身を刻むような絶望も。 目覚めた後の現実でさえ。 ========================= 太陽が遠くの山に沈もうとしている。 先程まで美しく赤焼けていた周辺は刻一刻と闇につつまれ、頭上には小さな星々が姿を現しつつあった。 少年は帰り道を足早に進む。 まだ幼い少女の手を引き笑いかけながら。 つい最近越して来た我が家は人気の無い、暗く薄汚れた通りにあった。初めて自分が両親の手に引かれ訪れた時は恐くて少し泣きたくなったが今は慣れて早く家に戻りたい気持ちの方が強い。 家に帰れば両親が待っている。 夕飯の準備をしながらまたあの優しい声で迎えてくれる事だろう。 母に頼まれた包みを握り、頬を刺す冬の冷たい風に逆らいながらようやく小さなアパートに辿り着いた。 二階にある我が家を見上げる。 いつもと少し、様子が違う。 窓の明かりが消えている。 父はともかく、母が留守にする事は殆どなかった。 いつでも、窓の明かりが一番に自分達を迎えてくれていた。 妹を下で待たせ、小走りに階段を駆け上がる。 家の鍵は開いていた。おそるおそる玄関に入ると暖房も切れているのか冷やりとした空気が体を締め付けた。 後ろから刺す弱々しい夕陽だけが足元を照らす。部屋はカーテンが閉められていて真っ暗だった。まだ家に馴染まぬ所為もあって輪郭すらおぼつかない。暗闇に慣れてから電気を灯そうとじっと待った。 段々と浮きあがる輪郭を何気なく見つめる。 自分の目と同じ高さに揺れる4つの足首。 ゆっくりと視線を上げる。 順を追って映し出される膝、腰、胸、そして頭。 途中、首から生えるように伸びた一本の紐がその『物体』と天井を繋いでいた。 何を見ているのか判らなかった。 瞬きも、息も、できなかった。 うな垂れた頭が此方を覗くかのように揺れる。 まだ幼さの残る己の瞳は、否応無しにその姿を焼き付けた。 苦悶に醜く歪んだ―――父と母の断末魔の顔を。 こんなに、醜い顔は見た事が無い。 こんなに、虚ろで澱んだ目は知らない。 こんなに、無残で冷たい塊に変わり果てて。 大好きだった母が、父が。 腹の底から吐き気が込み上げてきたが不思議と涙は出てこなかった。 膝に力を入れることができなくなり、両の足から崩れ落ちる。 それでも揺れる二人の死体から目を離すことができなかった。 「おにいちゃん?」 背後から妹の声が遠く聞こえる。一人で待ちきれなくなったのだろう、不規則なリズムで階段を上る音が響いてきた。崩れ落ちた体がその音に反射するように跳ね上がり瞬時に身を翻す。 妹が開いていた扉を覗き込んだ瞬間、兄は妹の前に立ちふさがり彼女を頭から抱きしめた。 「・・・おかあさん?」 呼ぶ声が震えている様にも聞こえた。未だ無情に揺れる母達を見てしまったかもしれない。懸命に身体を揺すり部屋に入ろうとするのを止めるのに一層力を込めた。 醜く歪んだあの両親の顔を、眼を、絶対に見せる訳にはいかなかった。 人が自ら死を選ぶ時、あれ程までに醜悪に歪むものなのだろうか。 つい昨日まで優しく微笑んでいた笑顔を思い出す事ができない。 間近で見た惨状を一生、忘れられそうになかった。 泣いて忘れてしまえたらどんなに良かったろう。 だけど泣かなかった。 泣けなかった。 父と母の苦しみに比べれば些細な事だと思うから。 結局一度も涙を流す事なく父母を死出の旅に送り出した。 醜く歪んだ二人の顔を瞳の奥に焼き付けたまま。 それと同じぐらい醜く、ドス黒い憎悪の炎と共に。 ========================= 目が覚めた。全身から冷たい汗が噴出している。 乱れた呼吸だけが脳裏に響いた。 寝付いてから1時間も経っていない。手元にある時計で時間を確認し、乾いた喉を潤す為に起き上がろうとすると隣から聞き覚えのある声が聞こえてきた。 寝言だろう、内容はよく聞き取れないが耳に馴染んだその声でようやく現実に帰れた気がした。 瞼を閉じると再び先程の悪夢が巡ってきそうになる。まだ残る余韻を吹き払うように首を振った。こんなに生々しく思い出したのは何年振りだろう。 忘れた訳ではなかった。忘れたいとは思っていたが。 昨日見た男の死に顔は意識の奥深くに押し込めていた記憶を呼び起こすに十分過ぎて、腹の底から込み上げてくる吐き気を押さえるのにかなりの時間を要した。 忘れる事は許されない。 失敗する事も許されない。 父と母と、妹の為に。 だけど上手くいったとして、その先に何が待っているのだろう・・・・・。 記憶に残るあの目のように自分の心も暗く澱んでいくのを止められず、早く朝日が空を照らす事をただひたすらに願うしかなかった。 |
6章と7章の間にくる話です。本編に入れるつもりだったんですが読み返したら結構はっちゃけてたので別枠。この話自体は3章ぐらいの時点で既に出来上がってたという(笑) 好きなのよトラウマ持ち。 |