「降りろ。」 「ここは・・・!」 車に乗せられて次に着いた先は洲本、先日訪れた梅婆さんの一軒家前だった。船に揺られていた間も無表情に口を噤んでいたボスが驚くヤスに今日始めて小さく笑ってみせた。 「行って来い。ちゃんとこの前の詫びも含めてな。」 「ボス・・・!」 暫く何も言えず上司の顔を見つめていたが、暫くして深く頭を下げるとヤスは車から降り一人で一軒家に向かっていった。その様子を見送りながらボスは煙草を取り出そうとポケットに手を突っ込んだが思い直してハンドルに手をかけ直した。 吐き出された長く大きな溜息は疲労と困憊に満ちていた。 半時間少ししてヤスが車に戻ってきた。車に乗り込む部下に声をかける。 「・・・済んだのか。」 「はい。とても喜んでくれました。僕も・・・昔の話ができて良かった。」 「そうか。」 伏目がちにヤスは礼を述べた。 「ありがとうございました、ボス。」 「文江も連れてきても良かったんだが・・・少し、お前とサシで話がしたかったんでな。」 「ボス。」 「どうして・・・」 一旦口を開いてから考えこみ、言葉を選んだ。 「お前、どうして逃げなかったんだ。」 「・・・。」 「いずれ俺が気づく事は洲本に来た時点で予測できたんじゃないのか。」 「そうですね・・・。」 ヤスは困ったように笑うとボスの問いに答え始めた。 「怖かったですよ。正直、本当に貴方だけが怖かった。犯人達がボスを恐がる気持ちがようやく判った気がします。上司としては頼もしい限りなんですが。相手にするとなると話は別ですよね。」 「当り前だ。犯人には手加減しないと昔から言ってるだろうが。」 ふてくされたようにぼやくボスにヤスは溜息をついてみせる。 「それでも時々抜けてますけどね。後片付けとか事務関係全然やる気無いですし。」 「・・・放っとけよ。」 「放っとけないでしょう。只でさえボスの面倒を見れる人は少ないんですから・・・何て言うのは卑怯ですよね。好きでなった仕事ですから投げ出したくなかった。それだけです。」 隣から真っ直ぐ見据えてきたヤスの視線をボスは立ち受けた。 仮に彼が逃亡していたら・・・自分は彼を絶対に許さなかっただろう。そして、こうして面と向かって本音で話す気にもならなかっただろう。そう思うと自分の質問がいかに愚かで矛盾していたか思い巡らされる。 ヤスは照れ臭そうに笑うと話を続けた。 「いえ・・・ひょっとしたら貴方を出し抜けるんじゃないかと思っ・・・」 「余計な事は喋るな。」 今後を左右する台詞が出た瞬間ボスは手をあげてヤスの台詞を封じた。 現職警官、しかも当該捜査官の犯行となれば周囲から色々詮索されるのは目に見えていた。どんな理由があっても殺人は絶対に許されない。 だができる限りの事はしてやりたい。 それがリスクを伴う限られた選択肢であっても。 それが決して刑事が取るべき最善の選択肢でなくとも。 「自分の始末は自分で付けろ。俺は部下に手錠をかける趣味はない。」 捜査線上に名前が上がっていないうちに自首しろ、と。 その意味をすぐに理解したヤスは戸惑い、躊躇した。事は既に決している。部下が犯人であるというだけで大問題なのに、この上自首となればこれまでの労力は全て無駄になる。 彼が責任能力を激しく問われるのは間違いない。 「しかし、ボス。」 「・・・したくないんだ。耕造の日記はお前か文江が持て。」 本当に嫌そうに呟くと窓の方にそっぽを向く。ボスは己の行為を自嘲せずにはいられなかった。 「・・・子供の我侭みたいですよ。」 そう言ってヤスも視線を外したが暫くしてからゆっくりと首を縦に振った。 用が済んで、船に乗り神戸に帰路をとる。船の看板で晴れた空と海を背負う淡路島を見送る。冷たい潮風が髪をかき乱す中、ヤスは独り言のように淡々と語り始めた。 「・・・養父母は優しい人でした。それでも、やはりどうしても両親の事が忘れられなかった。幼い頃はどうしてあんな事になったのかさっぱり判りませんでしたけどね。」 ヤスの目が懐かしそうに遠くなる。その視線の先にあるのは今遠く離れて行く淡路島か、彼の幼い頃の思い出か、ボスには判らない。 「両親を看取ったのか。」 無神経な質問だと思ったが、ここで聞かなくともいずれ別の場所で問い質す事になる。ヤスは頷くと抑揚のない声で答えた。その声はいつか聞いた、彼らしくない声だった。 「首吊りでした。・・・僕が発見者です。」 「・・・・・・。」 幼い子供が両親の自殺を目の当たりにする事ほど衝撃的な事はない。まして首吊りならその惨状は言うに憚る。京都で平田の首吊りを見た時のヤスの酷い動揺も全て合点がいった。 ボスもまたどんどん小さくなっていく淡路島に目を向けた。 「両親の目が訴えてたんですよ。恨めしい、口惜しいと。耕造と河村の事を知ったのが学生の頃でした。どうしても許せなくていつか必ず捕まえてやろうと刑事になったのに・・・未だに奴らが両親を陥れた真似事を続けていると知って、歯止めが効かなくなってしまった。耕造の真意も汲み取れず、文江も貴方も巻き込んで結局この様です。」 傍らにいる青年が見せていた明るい軽口や、優しい笑顔、刑事としての熱意は本物で、真実を知った今でも疑い様が無い。ボスは未だに殺人者の彼を想像する事ができなかった。 16年間の執念を一体どこに秘めていたのだろうか。許されない行為に変わりはないが自分にはこれ以上彼を責める事ができない。例え身内贔屓と言われても。むしろ責めるべきは―――――― 巻き上がる髪を押さえながらヤスは再び上司に頭を垂れて謝罪した。頭を下げるヤスの耳に今まで聞いたことの無い、弱々しい声が返ってきた。 「・・・悪かったな。」 「ボスが謝る事なんて何もないですよ。逆でしょう。」 思いがけないボスの声にヤスが驚いて顔を上げた。慌てて手を振り、それから静かに続けた。 「明日、文江と一緒に署に伺います。」 「ああ。」 「後が大変だと思いますがよろしくお願いします。」 「ああ。」 「ちゃんと報告書は自分で書いて下さいね。」 「・・・判ってる。」 向けられた笑顔は優しく明るく調子の良い口調もいつものヤスの顔だった。これが本当の彼なのだ。それなのに。 「どうして・・・。」 先程車の中で出た言葉が再びボスの口をついた。 どうして気づいてやれなかった。 どうして止められなかった。 前の日、彼は自分に何か訴えようとしていたのではなかったか。 何より河村の殺害だけでも自分は止められた筈だ。 三年。 三年間、傍で上司面してきて彼の決心の欠片すら掴めなかった。 記憶力や洞察力が何だというのだろう。沢山の事件を解決できても大事な時に役に立たなければ何の意味があろうか。 自分ができたのは手遅れの、表面だけの解決。 『どうして助けてやれなかったのだろう――――――』 驕り、買被っていたのだ。己の力を。 彼に対してその台詞を口にする資格すら無いのを痛感させられる。余りにも情けなさ過ぎるではないか。 喉から出そうになったその台詞を唇を噛んで飲み込んだ。笑う部下の顔をまともに見れず俯くその姿に、倉庫や取調で見せた豪腕な刑事の面影は消え失せてしまっている。 ヤスは上司の右腕に触れると申し訳無さそうに気遣う。 「ボス。」 「・・・・・・。」 「ボス、そんな顔なさらないで下さい・・・。」 この後に及んで慰められるとはな、と呆れたように笑うとヤスも応じるように小さく笑った。気を取り直したように軽く伸びをする。 「今日の仕事が終ったらどこか飲みに行くか。俺の奢りだ。」 「はい、いただきます。」 遠く離れ見えなくなった淡路島の代わりに神戸港の華やかな観覧車が姿をみせた。 =================== 翌日の騒ぎは未だかつてない程大きな物になった。 警察の広報とマスコミが入り乱れ、謝罪会見などで物々しい雰囲気が署内を峻風した。取調、送検は別の担当が行い何度かの裁判を経てヤスは刑務所へ送られていった。ヤスの刑は酌量すべき事情があったものの二人も殺めた事、国家公務員である事が要因で長期刑となった。共謀した文江は犯罪幇助のみで実行犯ではない事、兄同様酌量の余地有りという事が考慮され執行猶予付で釈放されたという。 ボスの管理責任は降格、減棒という形で決着をみせて事件は収集に向かっていった。 それから何度も桜が散り、若葉が茂り、銀杏が舞い、雪が降り。 季節が何度も巡り、日毎起こる事件や繰り返される暮らしの中で人々の記憶が薄れた頃、神戸から遠く離れた収容所で出所式が行われた。出口の前で刑務官に何人かが揃って挨拶をすると各自が思い思いの道を行く。一人の男が門をくぐると、少し先に見慣れた人物が男を待っていた。昔と変わらぬ仕草で挨拶され男は驚いて立ち止まった。 「よぉ。」 「!!」 出所したヤスの目の前にいたのは昔の上司その人だった。トレンチコートは当時より少し色褪せていたが昔のまま、だがその下は背広ではなくポロシャツにセーターというラフな格好だった。 「何で・・・ここに。」 「ん、まぁコネとかツテとか色々な。」 「ボ・・・。」 "ボス"と呼ぼうとしてヤスはその台詞を飲み込んだ。ボスは気にする様子もなく笑いかける。その笑いは昔見た笑顔そのものだったが顔に刻まれた年月の刻印がこれまでの時間を鮮明に表していた。 「久しぶりだな。・・・少し痩せたか。」 「・・・貴方は老けましたね。」 「それはお互い様だろう。言っとくがまだギリギリ40代だからな俺は。年の話はするなよ。」 相変わらずですねと笑ったヤスの肩を叩くと彼の顔を覗き込む。微妙に変わったのは顔だけで何から何まで昔のままだった。 「これからの予定は?」 質問の意図を量りかねヤスは暫く悩むととりあえず今向かおうとしていた行き先を告げた。 「・・・いえ特に、は。軽井沢の方に寄ろうかとは思ってますが。」 「ああ、妹の所か。」 「・・・ご存知で?」 自分の顔を不思議そうに見るヤスにボスはニッと笑うとかなり先に止めてある車を指差してついて来るように促した。 「まぁな。急ぎじゃないなら少し付き合え。」 相手の都合を考えないのも変わっていない様だがそれすら懐かしく、特別急ぐ訳も断る理由も無いのでヤスはボスに従い車に乗り込んだ。 「それにしても随分遠くへ飛ばされたもんだな。」 ヤスは肩をすくめてみせた。 「決めるのは裁判所で自分では選べませんからね・・・。むしろボスがここに居る事の方が不思議ですよ。わざわざ神戸から来て下さったんですか。今日は非番だったんですか?」 「・・・いや、それなんだがな。」 ハンドルを握りながら言いにくそうに言葉を濁す元上司にヤスは首をかしげた。 「・・・・・・?」 「まぁ、いいか。後で。」 アクセルを踏み込んで車は大きな車道に飛び出していった。 暫く走った先で食堂に入る。中は他の客が店内でごったがえしていて賑やかだった。 「飯は。」 「いえ・・・まだです。」 少し狼狽した感じのヤスに頷くとボスは店員を呼んで同じ物を二つとビールを注文した。店員が料理名を叫ぶと店の奥で厨房の大きな返事が聞こえてくる。先に酒が運ばれて来て、ボスはコップに注いで彼に薦めた。 「色々変わったろ。」 「・・・そうですね。」 薦められたコップに口をつけ一口飲んだ瞬間、ヤスは軽く咳き込んだ。 その様子に苦笑するとハンカチを取り出しヤスに手渡す。 「流石に刺激が強かったか。」 「か、からかわないで下さいよ!」 ハンカチで口を抑え落ち着いた頃テーブルの上に料理が運ばれてきた。その料理を目の前にしてヤスはボスに話し掛けた。 「それで・・・どうしてここに?」 「・・・場所は別にどこだって良かったんだけどな。まぁ、腹ごなしついでだ。」 それでも箸を付けず見据えてくる元部下に頭を何度か掻いて向き直った。 「頼みがあるんだよ。」 その台詞を聞いてヤスは不思議そうに瞬いた。 「・・・今の僕に出来る事はそうないと思いますが、何です?」 「もう一度俺の下で働く気はあるか。」 ヤスの笑顔が絶句の表情に取ってかわり、苦笑いと変わっていった。 「無茶言わないで下さい。実刑、しかも長期刑を受けた警察官が職場復帰できる訳ないでしょう。」 「誰が警察に戻れなんて言った。」 ボスの不機嫌そうな返事にヤスは少し遅れて反応した。 「って・・・お辞めになったんですか?!」 大きな声に店員や周りの客の視線が集中する。慌てて回りに会釈して返すとヤスはボスの顔を覗き込んだ。彼の反応に少し気を良くしたのか割箸を割りながら楽しそうに話す。 「驚いたか?」 「驚いたも何も!まだ定年には早いじゃないですか。まさか・・・。」 「ああ、変に勘繰らんでもいい。辞めたのはほんの3年前だからな。」 ヤスの心配をさらっと流すと料理を口に掻きこみ始めた。 「大変だったぞ?署長には泣きつかれるわ終盤は阿呆程仕事回されるわ。退職金がそこそこ出たから別にいいけどな。」 「・・・・・・・・・。」 口を動かしながら器用に上着のポケットから名刺を取り出して、呆れたように押し黙ってしまったヤスの目の前に置いた。 「とはいえ、年金貰うにはまだ早いからな。一応仕事はやってる。」 「興信所・・・。」 目の前に置かれた名刺を手にとり目を通す。ここからも、神戸からも離れた場所の住所が載っている。よく見れば代表者はボスの名前である。 「最近忙しくなってきてな。浮気調査やら身元調査、保険査定やらが殆どだが結構需要があるもんだ。・・・刑事の時より少し気も楽だしな。」 「そうですか・・・。」 「どうだ?」 「申し訳ありませんがお断りします。」 ヤスは静かに首を振った。その反応は予想していたのかボスは食べかけの丼を机に置くと身を乗り出して説得にかかった。 「軽井沢に行くと言っていたがそこで一緒に暮らす訳でもなかろう?」 「・・・もちろんです。文江は文江でちゃんと生活を取り戻しています。それを邪魔するつもりは毛頭ありません。」 「じゃ、これからどうするつもりだ。」 今後の予定。 先程問われた時は当面の予定を答えたがこの問いはもっと先の、これからの人生を指しているのだろう。お互い警察関係者であった以上出所後の受刑者の先がどれほど暗然としているかは骨身に染みている。ボスの表情をみる限りここで答えねばこの場は収まりそうになかった。 「・・・暫くしたら観察所のツテをあたって仕事を探します。」 「嘘が下手になったな。そんなツテがあそこにある訳なかろう。」 にべもなく言い捨てられてすぐに切り返す。 「散々貴方に迷惑をかけておいてこれ以上迷惑をかけられません。」 頑として譲らないヤスの様子にボスは溜息をついてぼやく。 「ああ、本当に大変だった。マスコミは毎日たたみかけてきやがるし、同僚に嫌味は言われるし、暫く一人で事務処理は滞る一方だったしな。」 「・・・・・。」 当時起こった事柄を羅列するとヤスの困った顔がそれに比例するように深刻味を帯びていく。それが可哀想な程可笑しくて目の前で大きく手を振った。 「お陰で未だに小言を言われる始末だ。迷惑かけて申し訳ないと思うのなら埋め合わせくらいしてくれてもいいだろう?」 「・・・小言?」 「あ、ほら平田由貴子。身元保証人になったから俺。」 度重なる衝撃の情報にヤスは呆然と口を開き、何か言おうとしたが 声にならない。ボスはぱくぱくと動く相手の口にひとしきり大声で笑うと気を取り直し真剣な表情で再び説得を始めた。 「無論、落ち着いたらいつ辞めてもらってもかまわん。勘を取り戻すには丁度良いと思わんか。」 「・・・・・・。」 少し目頭が熱くなったのだろうか、誤魔化すように俯いてしまったヤスを見つめながら手元にあった自分の酒を飲み干す。 「この数年で周りは相当変わったぞ。」 「ええ、神戸はもっと様変わりしているんでしょうね。」 「これだけ経てば全国各地変わってるさ。」 しみじみと話すボスにヤスは顔を上げて切り出した。 「今日の出所は貴方にはお知らせしてなかった筈ですが一体どうやって。」 「文江に頼み込んで教えて貰った。元警察関係者を舐めるなよ。」 空いたコップに残りのビールを注いで嬉しそうに話すボスに呆れてぐったりと肩の力を落とす。笑っていたボスの顔がふっと変わった。それをヤスは黙ってみつめる。 「回りくどいやり方だと自分でも思うが・・・他の奴は使い勝手が悪くてな。ここは一つ昔のよしみで聞いてもらえないか。」 この男は自分の為に職を変え、居場所を作ってくれたのだろうか。何を思って人を殺め騙した自分をこうして迎えに来たのか、由貴子の件も含めて聞きたい事は山程ある。聞けば答えてくれるだろうが今それを聞くのはあまりに失礼な気がした。 ここに行き着くまでにどのような葛藤があったのかは推測するしかない。ただはっきりしているのはこうなると何を言っても聞かないという事だ。どこまでついて行けるか判らないが・・・いつか今日の迎えの意味を聞く事ができるだろうか。 本当にこの人は最初から最後まで周りを振り回す。だけどやはり憎めない。そこが彼の長所であり自分が尊敬する所なのだろう。ヤス肩を落としたまま呟いた。 「本当に呆れた・・・。」 そう言うと手元にあった箸に手をつけ割る。神妙な顔をして見つめてくる相手を一瞥して事務的に返事をした。 「食べたら軽井沢に行きます。」 ボスの表情が一瞬険しくなった。散々笑われたお返しとばかり喉を鳴らして笑う。驚き、むっとした彼にヤスは昔と変わらぬ笑顔と小気味良い台詞を向けた。 「ボス。名刺はお預かりします・・・行くまで散らかさないで下さいね。それと、飲酒運転は駄目です。外で醒ましてきて下さい。」 ようやく聞き慣れた名前で呼ばれて、ボスは黙ってビールの入ったグラスをヤスの手にある丼に当てた。 |