・・prelude・・

時は夕刻。
午前中快晴だった空は雲が重苦しく幾重にもたち込めて後数時間もすれば雨が降り出すだろう事は誰の目から見ても予測できた。
空模様を伺いながら足早に県警の門を後にする者、諦めた様に溜息をつきながら目の前に積まれた書類に目を通す者、気に留める事もなく署内を動き回る者、部署によってその情景も様々だった。


「お疲れさん。もう上がるのか。」
署内の一室で帰り支度をしていた青年に、少しよれたトレンチコートを着た強面の刑事がひょっこりと顔を覗かせ、背後から声をかけた。
「ええ、もう帰ります。仕事も一段落つきましたし定時もとっくに過ぎてますから。雨も降り出しそうですし。」
声をかけられた青年はそのまま手を止める事なくゆっくりと振り返り微笑んだ。

「それは丁度良い。俺も上がりだ。どうだ、一杯付き合わんか。」
頭一個分程下の青年を嬉しそうに見下ろしながら男は手首を返しそれと判る仕種を見せた。

「折角ですが明日は非番なんでお付き合いできないんですよ。また今度でも。」
「明日休みなら尚更問題無いだろ。」
「大アリです。毎度毎度限度考えずに飲むでしょう。後始末だけでも大変な上に次の日二日酔いに悩まされるのは僕なんですよボス?」
「限界考えながら酒なんて飲めるか馬鹿。」
ボスと呼ばれた男はあからさまに不機嫌な表情をして反論した。およそ40代一歩手前の男が見せる態度とも思えない。

青年は苦笑いを浮かべてなぐさめる様に言った。
「ボスと飲むのが嫌だって訳じゃないんですよ?そりゃ四六時中ボスのお守りするのは大変で・・・あ、いえ。ただ明日は・・・大事な用事でどうしても無理する訳にはいかないんです。」
「どこに行くんだ?」
「墓参りです。」
「ん?お前の親御さんもうくたばってたっけ?」
「・・・勝手に殺さないで下さい。祖父の法事です。」
「どうせ面倒臭い事全部身内から押し付けられたんだろお前。身内だろうが何だろうが『自分の仕事は自分でしろ』ってちゃんと言った方がいいぞ。」

それじゃ日頃の自分はどうなんだという台詞をギリギリ飲み込んで、掛けていた背広を手にし再度心底残念そうに詫びると彼も流石に観念し溜息を一つついて笑った。
「仕方ない。他の奴をひっかける事にするさ。また今度な。」
「・・・それはまた災難な・・・あ、いえ、いえ。それよりボス。僕が休んでる間にこの前の放火事件の報告書、ちゃんと書いておいて下さいよ。署長から何度も催促されてるんですから。」
「何でお前に催促するんだ。」
「ボスに直接言っても駄目だって判ってるんでしょう・・・」
半ば諦めと呆れを込めて言い返す。

「・・・・まぁ、遅れついでなら提出が二日後でも大丈夫だろ?」
「・・・・ボス?」
「お前一緒にいたんだからよく覚えてるだろ。休明け書いといてくれや。終わった事件はすぐに忘れちまっていかん。」
「何度も言いますが字でばれるんですよ?!また嫌味言われるの誰だと思って・・・!!」
叫び終わる前に上司は部下の肩に手を置き、先ほどと同じ笑みを浮かべながら覗き込んだ。
「な。頼むよヤス。」

これだ。この笑顔にほだされて何度無茶をやらされた事か。
この3年―――それでも、この人に本気で不快な思いを感じた事は一度も無い。むしろ。

はぁ、と大きくため息をつき名を呼ばれた青年は上司を見上げる。
「・・・今日の埋め合わせも兼ねて、ですか?」
「そう、物分りがいいなお前は。」
部下の頭をかき回すのと豪快に笑い飛ばすのとを同時にやって上司は機嫌良く背を向け手を振った。
「じゃ、また明後日な。」


「ボス。」


「・・・ん?」
その声は抑揚が無く、微妙にいつもと違う雰囲気を感じて振り返る。
振り返るといつもの明るい笑顔を浮かべたヤスだった。
「飲みすぎないで下さいよ。ボスは明日仕事なんですから。」
「そんな事言うのにわざわざ引き止めるな!」
捨て台詞を吐きながら部屋を出て行く上司の背をヤスはじっと見送った。彼の足音が聞こえなくなっても暫く目を離す事なく。

空模様は日没と合い間ってますます暗く、冷たく湿気を帯びつつあった――――


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その日は、一日ずっと雨が降り続いていた。


大きな屋敷の、事務所として兼用しているであろう書斎に二人の男が向かい合って座っている。暫くの沈黙の後、背は低いながらも恰幅のいい男が立ち上がり、未だ降り続ける雨を気だるそうに見ながら口を開いた。

「・・・どうも、今日は珍しい客ばかりや。」
相手の男は何も反応しない。
「正直、あんたに今日会えるとは思わんかった。・・・色々あんたには言わんとあかん事あるんや。ああ、判っとる。そんな恐い顔せんといてくれるか。」

位置的に見下ろす立場にありながら男は若干怯んでるようにも見えた。それでも常日頃から不遜であろう態度と容姿の所為で台詞に見合った意思を察する事は難しい。
「先客と話してた時に丁度あんたの事思い出したとこやったんや。ほんま奇遇な事もあるもんや。もうそんなになるんやなぁ・・・」
男は相手の刺すような視線から逃げるように背を向け2,3歩程窓際に歩み寄ると肩を落とし俯いた。瞬間、かすかに布地がすれた音は雨音に掻き消され俯いている男の耳には届かない。

「・・・実はなぁ、あんたの・・・ッ――――――――!!!!」
呟きながら振り返った瞬間、男の喉にはサバイバルナイフの柄だけがその存在を誇示していた。
「ガッ・・・ッ!!・・・ゴフッ・・・・!!!」
男の驚愕の顔を見てとると喉に突き刺したナイフを一気に引き抜く。
語り損なった台詞の続きを代弁するかのように喉からおびただしい血が溢れ出る。
掃除の行き届いている青い絨毯が見る間に赤く染まり、すぐに絨毯の色と同化し深く沈んだ色へと変化して―――男は何度か痙攣を起こすと動きを止めた。

異様で無残な光景を作り出した相手は特別臆する事も無く手袋越しに握っていたナイフを男の右手に握らせた。
そして今はもう動かない男の顔を見下ろしながらこの部屋に入ってから初めて、低い、小さな声で呟いた。
「・・・まだ、これからだ。」
男の顔を映す瞳の色は足元の染まった絨毯のように暗く沈んでいた。
   








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