・・(1)・・

 昨日降り続いた雨は朝方に止み、心持ち空気が澄んでいるような気分にさせられた。日が昇ればまたいつもの騒々しい日常がやってくる。


ヤスは自身のデスクが置かれた部屋に入ると自分と上司の机、その周辺を簡単に拭き提出書類をまとめて上司の出勤を待った。

聞き覚えのある足音は徐々に大きくなり、入り口前で止まるとドアが勢い良く開かれる。
「おはようございます。ボス、昨日はすみませんでした。」
「おう、おはよう。」
ヤスの挨拶に返事をそこそこに返すとボスは眠そうな顔のまま椅子が折れそうな勢いで座り込んだ。椅子が悲鳴をあげる。その口元は真一文字に結ばれ、只でさえ良いと言えない人相が益々凶悪さを増している。機嫌が悪いのは誰が見ても明らかだった。
少なくとも道中、署内において誰もが彼に道を譲ったであろう事を想像しながらヤスは慣れた手付きで灰皿を上司の目の前に置いた。


「花隈町で事件だ。」
ぶっきらぼうにそう言うと胸元のポケットから煙草を取り出し火をつける。一呼吸つくと促すようにヤスを見上げた。

「知ってます。朝一番のニュースで見ました。現場には既に鑑識が回ってるそうです。被害者は山川耕造、ローンやまきんの社長だそうです。・・・自殺の可能性もあると聞いてますが。」
「・・・署長はそうは思ってないらしい。」
素早い部下の答えに入室時よりは若干表情を緩める。

「朝っぱら早々!!わざわざ電話で呼び起こしやがったんだぞあのジジイ!6時だぞ6時!!あの年寄り自分が起きてる時間は他人も起きてると思ってるのと違うか!!」
「・・・ボス・・・、筒抜けです。それに6時なら出勤に丁度いいじゃないですか。」
「俺は5分前に起きれば十分だ。」

正直であるという事は一種の美徳と思うがどうも彼の人の場合所々、色々と大事な物も忘れてしまってるような気がしてヤスは話題を逸らした。
「それで、署長は山川の件はどうされると?」
「俺が担当だ。自殺か殺人かは現場を見て判断する。あのジジイ、ややこしそうな事は全部俺に回してきやがる。」
一気に捲し立ててある程度すっきりしたのか体を伸ばし欠伸をした。

こう粗雑に見えても――――この男は一度たりとも捜査において失敗した事はない。

素行・人格に多少問題があるにしても自我の根底を律する精神はやはり警察官であり、私利私欲で人を害し犯す者に対しては決して妥協も、譲歩もしなかった。捜査時の洞察力と集中力は他の者より突出しており精神的にも肉体的にも激務に耐え得るだけの強靭さを持ち合わせている。
もう少し繊細で、もう少し融通が利けば役職も一つくらいは上がっていたかもしれないが是正する様子は見当たらない。それが良いのか悪いのかは本人のみぞ知る所だろう。
ただ事件解決能力だけは周囲も認めており、だからこそ署長はこの男を指名した。

吸いかけの煙草を灰皿に押し付け、上司が部下を見上げると新しい任務に緊張しているのか一瞬、部下の表情が硬くなったようにも見えた。視線が合った瞬間口を開いたのはヤスの方だった。
「ご命令を、ボス?」
「とりあえず現場、だ。行くぞ。」
座った時と同じように勢い良く立ち上がり、椅子の悲鳴は足音に消され無視された。


「・・・・ある所にはあるって事だよなぁ。」
花隈町の一角を占める山川耕造の屋敷は入り口からして大仰な門と塀に囲まれ庭内までの広い庭は丁寧に手入れされていた。内部は家主の趣味がよく反映されて高価な絵画や骨董品などが自然と目に入る位置に配置されている。

死体が発見された書斎には被害者が倒れていた状況がチョークで簡素に記されていて、首部分のあたりに生々しい血痕が残っている。そのアンバランスさが一層部屋の雰囲気を薄ら寒くしていた。

「死体と凶器は鑑識で調査中です。それ以外は現状のまま誰も立ち入りしてません。」
ヤスは事前に調べておいた資料を取り出し説明を始めた。
「山川耕造。ローンやまきんの社長で妻子は無し。ただ親戚に俊之という甥が一人だけいます。被害者は貸金融業を営んでおり経営状況は極めて良好だったようです。もっとも、法律ギリギリのかなり悪辣な商売をしてた様で会社や商店を潰された人間は数知れずらしいですね。」
語尾に侮蔑の色が込められた。

「死因は出血性ショック死。首をナイフで一突です。死亡推定時刻は17日の午後9時頃、ナイフは被害者の右手に握られていました。それとこの部屋のドアですが―――」
「内部から鍵が差し込まれていたのか。」
ヤスが書類から顔を上げると既にボスはドアのノブを覗き込んでいた。
「はい。第一発見者が部屋に入ろうとした時には施錠されていたのでドアを押し破ったそうです。内部から鍵が差し込まれていると外からは鍵があっても開かないそうで・・・つまりこの部屋は密室だった。だから自殺だと思った、そう証言してるそうです。」
「第一発見者は。」
「守衛の小宮という老人と秘書の沢木文江の二人です。いつでも呼び出しは可能ですが。」
「聞き取りは後だな・・・」
呟きながらぐるりと部屋を一瞥し、ポケットから手袋を取り出し手にはめるとヤスに指示をだした。
「この部屋は俺が見る。お前とりあえず屋敷の周り見て来い。」
「はい、わかりました。」
部下が部屋を出ると同時に捜査担当者の男は思案にくれた。

状況的には自殺の可能性も捨てられない。だが報告された被害者の生活態度、性格、経済環境からして自殺する理由が見当たらない。まして自殺する人間が己の首を躊躇無く一突きにできるだろうか。おそらく署長が他殺だと判断したのもその点にあるのだろう。

おもむろに本棚に手を伸ばし呟いた。
「本当に、ややこしい事件ばかり押しつけやがって・・・」
それでも、解決不能とは思わなかった。
いつもの様に、今まで通り、犯人がどんな小細工をしようとも必ず見つけ出し捕らえてやろう、と。
これから先も、あのからかい甲斐のある部下と共に。
そう確信していた―――


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 山川邸の探索を開始してから一時間程で程でヤスが部屋に戻ってきた。

「ボス、これを。」
握られたハンカチの中に包まれていたのは金色に輝く小さな指輪だった。
「9号、くらいですかね?」
「耕造には妻子はいないと言ってたな。女関係はどうだったんだ?」
「羽振りの良さに反してそういった類の話は一切無かったようです。屋敷の玄関近くに落ちてました。」
「ふむ、とりあえず取っとけ。それとそこの机の上においてあるマッチ箱と写真もな。」
「写真?被害者本人のですか?」
「大事にタンスの奥にしまってあった。本人の趣向や意図はともかく使わせてもらう事にしようや。・・・ヤス。」
「はい、わっ!」
不意に幅10cm程もある書物を放り投げられ、ヤスはかろうじて顔面近くで受け止めた。
「いきなり投げつけないでくださいよボス!!こんなの当たったら・・・聖書?えらくまた変わった取り合わせですね。しかも割に軽い・・・?」
分厚い表紙をめくると中の本文はくり貫かれて空洞になっている。

「中身はこれだ。」
ボスは古びた小さな鍵をかざして見せた。この部屋の鍵でない事は確かで、合致しそうな個所は部屋内部にはどこにも見当たらなかった。
「これだけ御丁寧に隠してあったんだ。何も無いという事もないだろう。ただ、この部屋にはもう何もないな。他に部屋は?」
「大体は自分が見て回りましたが特別何も。隣の応接間はまだ手付かずになってますが。」
「おいおい、見ずに戻ってきたのか?」
責めるような口調ながらもその表情は玩具を見つけた子供の様に楽しそうだった。相手も負けずに言い返す。

「何言ってるんですか。どうせ御自分で確認するつもりだったんでしょう?この部屋の調べは30分程で終わった筈です。ボスこそ何をなさってたんですか。」
「いや、まぁ、ちょっと考え事をな。そうあまり年長者を酷使しないでくれよ?」
「そりゃぁもう僕の方がずっと若いですけどね。四十路前のボスには敵いませんよ。」
「・・・最近可愛くないなお前。昔初めて配属された時はそりゃあもう素直で可愛かったのに」
「それもこれも誰かの再教育の賜物ですよ。」

大袈裟な仕草で昔の話を持ち出し始めた上司に"またか"とばかり部下は短く話題を切り上げ部屋の出口を指し示した。
「小宮らが押し破った所為で建付けが悪くなってますのでドアはこのままで行きましょう。さ、お先にどうぞ。」

やれやれと聞こえよがしに言うと部屋をでて隣に移る。隣の応接間は殺人現場になった書斎とは一転して明るい雰囲気で、質の良さそうな大きいソファと外国製の家具が揃えられていた。壁にはどこの誰が描いたか知れない絵画も飾られている。
「・・・成金趣味もここに極めりってとこだな。ヤス、絨毯の下見てみろ。」
「何も落ちてなさそうですね・・・」
ソファを持ち上げても特別落ちている物など見つからない。少し考える素振りをしてボスは再度指示を出した。
「とりあえず壁周辺は俺が見るから床叩いてみろ。」
一瞬、怪訝そうな顔をしながらヤスは素直に指示に従った。絨毯の下はタイルかコンクリートだろうか、コツコツと固い音だけが返ってくる。自分に背を向け絵画を見いっている上司に極力控えめに、問いただしてみる。

「ねぇ、ボス。こんな所を叩いて何か意味があるんですか?」
「ん?ある訳ないだろ。物は試しってやつだ。」
「・・・・・っ!!!」

背を向けていても部下の絶句している表情が手に取るように判る。毎度毎度のその律儀な反応が面白くて止められん、と肩を小刻みに揺らして笑うと返事の代わりに長い、大きな溜息が返ってきた。
無言の抗議を聞き流し何気に絵画に触れると奇妙な感触が返ってきてボスの表情から笑みが消えた。
「何だ。」
横から見ると絵画と壁の間に何か挟まってるようにも見える。二人で絵画を壁から降ろすと小さな押しボタンが姿を現した。
「押してみるか・・・。」
「しかしボス、危険じゃないですか?何か飛んできでもしたら・・・」
「個人の邸宅でか?ドラマの見過ぎだお前。よっ。」
拳で殴りつけるようにボタンを押す。が、壁が響くだけで何の反応も起こらない。何度押しても時間が経過しても一向に変化は訪れなかった。
「ただの飾りとも思えんがなぁ・・・。当てがはずれたか?」
肩透かしを食らった感でお互いに顔を合わせて考え込んだがこれ以上この部屋を探索するのは時間の浪費だと判断して引き上げる事にした。検証、聴取、報告、捜査本部に戻ってすべき事は山程ある。応接間を出て、扉が開かれたままになっている書斎を横目に廊下を進もうとした瞬間、視界に飛び込んできたのは信じられない光景だった。

―――――穴が開いている。

正確には四角く、そこだけ絨毯が切り取られたようになっていて地下へ続く階段が顔を覗かせていた。おそらく先程の押しボタンによって開かれたものだろう。
「個人の邸宅で地下通路、か。あながち、お前の言うように本気で色々仕掛けてるかも知れんなこの家は。」
「・・・ボス。」
図太い神経を持つ者でも流石に驚きを禁じ得ないのであろう。苦笑いを浮かべながら現れた入り口に暫く見入るとボスはそのまま真っ直ぐ階段に向かって歩みを進めた。
「ちょ・・・っ!!ちょっと待って下さいボス!!このまま降りる気ですか!!」
「発見した以上は自分の目で確認するのが筋だろう。恐いのならそこで待っていろ。」

「誰もそんな事は言ってません!」
何より自分が心配しているのは好奇心のみで行動しようとする向こう見ずな上司なのに、当の本人は部下の心配など他所にニヤニヤと笑っている。
先程の続きでからかってるのだろう。これさえなけば本当に尊敬すべき刑事の鏡なのにと心の中で何十回目かの悪態をつくと少しムキになって追いかけた。

目の前に広がる入り口は暗く深く、その奥で何が待ち受けているか誰にも予想する事はできなかった。 


















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