早朝。色気も飾り気もない仮眠室の天井が視界に入る。 体を起こすと隣で上司が気持ち良さそうに眠っている。起き上がった自分もよく眠れた方だった。捜査が始まればむしろここが寝床と言ってもいい。しかし酔っ払いの駆け込み寺では無い。 ヤスは立ち上がり備え付けの流し台に向かう。顔を洗いコップに水を注ぎ飲み干した。カッターの袖口に鼻をつけると微かにアルコールの匂いが残っている。 「・・・。署長に知れたらまた文句言われるんだろうなぁ・・・。」 一息ついて時計を見ると針は5時40分を指していた。就労開始にはまだ少し時間がある。 「今起こしたら怒る・・・よな。」 少し考えてから、部屋に充満する酒気を入れ替える為に部屋の窓を解放した。 熟睡する上司をそのまま置いて。 「・・・っくっしゅ!」 窓を開けた時間は30分程だったが流石に寒かったのだろう。目が覚めてから時々ボスの口からクシャミが漏れる。それでも自分に起こされるまで起きなかったあたり流石だとヤスは思う。 「昨日は結構冷えたな。お前は大丈夫か?」 「ええ。まぁ。はは。」 駅前で貰ったテッシュで鼻をかむボスを横にしてヤスは乾いた笑いを浮かべながら明後日の方に視線を逸らした。 揺れる電車の中で京都に向かう。神戸から何回か乗り換えて一時間半程で駅に到着した。ヤスが公衆電話で昨日の番号に電話をかけるとすぐに愛想のいい声が返ってきた。 『はい、寺田屋旅館です。』 「すみません、真野と申しますがそちらに平田さんという方がお見えになってないですか?」 『え?平田さん?確かにうちとこに来ました。何でも阿弥陀が峰に行くいうてましたけど。』 「そうですか、自宅に戻ってらっしゃらないんですがまだそちらに?」 『帰ってない?さぁねぇ・・・荷物は全部持って行きはりましたけど・・・。』 それから少し話を続けて旅館の住所を確認し電話を切った。 「ボス、どうします?」 「とりあえず台帳の確認だけさせてもらって周辺で聞き込んでみるか。阿弥陀が峰って言ったら・・・。」 「東山の方です。ここからだと七条まで電車に乗っていった方がいいですね。旅館もその近くですよ。」 「ひょっとして山登るのか・・・・?」 「そりゃ、まぁ。・・・ボスおっさん臭いですよ・・・・。」 「やかましい。」 二人の横を観光客が団体で通って行く。売店の売り子の声もよく通る。二人は振り返って再び駅のホームに歩いていった。 「ようこそおいでやす。」 「すみません、先程お電話した者です。平田さんの件でちょっと・・・。」 七条から割と歩いた所に旅館はあった。近くにはいくつもの神社や寺が集まっている。阿弥陀が峰はここからまだ距離があるらしい。番頭に事情を説明し台帳を確認すると確かに平田の名前が上がっていた。旅館を出たのは丁度耕造の殺された17日だった。 「どちらにしても間に合いませんでしたね。どうします?」 「ここを出たのは当日の何時ぐらいだったんですかね?」 「うーん。時間まではちょっと判りませんなぁ。」 番頭と3人で顔をつき合わせ話をしていると奥から旅館の女将が出てきた。 「まぁ、まぁ。お客様こんな所で立ち話も何ですよってどうぞ奥へ。え?刑事さん?神戸から。それはまぁわざわざお疲れ様でした。ほな尚更他のお客さんの都合もありますしどうぞ奥へ。」 女将は一気に捲し立てると有無を言わさず奥の客間に二人を案内させた。通された部屋で平田の事を聞くが番頭と話した事以外の新情報はなく、何時の間にかこの辺りの観光スポットやらおみやげ百選やら旅館の宣伝を絶え間なく聞かされた。どうやら生来の話好きのようで矢継ぎ早に繰り出される話は終わりが見えない。 長い、長過ぎる。 どこで話を止めたらいいのか判断しかねていると今度は館自慢の温泉の話になり、ここで辟易していたボスの表情が変わった。 「お、ここ温泉があるのか。」 「はい。良かったら刑事さんどうどすか?」 “温泉“の一言にボスが興味を示すのを見るとすかざず女将はたたみ込んだ。 「いいな。昨日風呂に入り損ねてるし。」 「ボス!」 「いいだろ昼飯もここで。どうせ経費で落とすんだから。」 「いや、無駄に経費を使うのも。」 「ほな、どうぞどうぞ。」 女将はそそくさと立ち上がり襖をあけて機嫌良く促す。ボスも嬉しそうに頷いて立ち上がりまだ客間で腰を降ろしている部下を見やる。 「お前も来いよ。」 ヤスは慌てて手を振り後ずさった。 「あ、いや、僕はちょっと、その間に聞き込みに行ってきます。お先にどうぞボス。」 「何だ、一緒に入ろうやヤス?俺とお前の仲じゃないか。」 そう言えば長い間、四六時中一緒に行動してる割に今まで裸の付き合いとやらはしてないだろとからかうように言うとヤスは真っ赤になって上司を迂回するように急いで部屋を出る。 「や、ほら、効率を考えて。僕は結構ですっ。じゃ行って来ます!」 そう叫ぶと二人に目もくれず旅館を飛び出した。 「・・・逃げやがったな。」 「あら残念。」 後ろでぽそりと女将が呟く。はたと目が合って何とも言いようの無い沈黙が流れた。先程までの流暢な多弁はどうしたと突っ込んでやりたい気分に襲われる。 「・・・いや、別に・・・軽い冗談だったんだが。」 薄い笑い顔を浮かべ曖昧に頷く女将を見て最後の一言は言うんじゃなかったと後悔した。 設備のしっかりしたそれでいて風情のある作りの浴場だった。一人で一泊しても結構いい値段かもしれない。 大きな湯船に浸かりながら平田の事を考えた。 耕造にあれだけの借金をしておきながら、神戸の店も娘も放ったらかしにてわざわざ京都くんだりまで観光旅行というのもおかしい。仮に耕造を殺して逃亡してきたとしてもあの女将に行き先を告げたあたりイマイチ説得力が無い。 もっとも本当に平田が阿弥陀が峰に向かっていればの話だ。事件発生からすでに4日程経過している。現地に残ってる可能性は皆無に等しい。どうしたものか。 「酒でもありゃ丁度いいんだがなぁ。」 その台詞を聞けば部下がまたどんな顔をするのか目に浮かぶ。思い出すように笑うと鼻まで湯船に浸かり旅の疲れを流した。 風呂から上がって仲居が持って来た昼食に箸を付け始めた所でヤスが部屋に戻ってきた。 「ボス。」 「おう。先に食ってるぞ。」 「お構いなく。」 笑ってヤスは向かい越しに用意された自分の席に付き箸をとる。 お互い適当に幾つかつまんだ所でボスが話を切りだした。 「で、どうだった。」 「この近くのお寺の人が話してしてくれたのですが、先日おかしな男がいたそうです。そこにお参りに来てぶつぶつ言いながら30分も必死で拝んでいたとか・・・。平田でしょうか・・・。」 「・・・寺だと!?」 報告を聞くと同時に箸が止まる。 思いの他激しい反応にヤスは驚いたが黙って頷いた。 まだ本人と決まった訳では無い。しかし由貴子に確認した身体的特徴と聞き込み証言が似通っている。 嫌な予感がした。 「ヤス。すぐに食え。阿弥陀が峰に行くぞ!」 「あ、はい。」 上司に急かされヤスも目前の料理を急いで片付けた。 流し込むように食事を済ませ駆け足で阿弥陀が峰に向かった。案内版を見ながら山道を登る。 延々と続く林道を抜け開けた場所に出たその時、探していた平田はそこにいた。 死体で――――――――――― 「ボス大変です!平田が首を吊っています・・・!!」 ヤスが呆然と呟いた。 「・・・なんてこった・・・!」 この辺りで一番太めの樹に布を巻きつけ首を吊っている。風で服がパタパタと揺らめいていた。 土気色の顔、見開かれた虚ろな目、特有の臭い。そして表情。 何度も見てきたがどん底に叩き込まれるような衝撃だけは抜けそうにない。 死体をすぐに樹から下ろす為に駆け寄る。布を解こうと手を伸ばした時、後ろで固まってる部下が目に入った。 「何をぼさっとしてる!!手伝えヤス!」 怒鳴られて弾かれたようにヤスが駆けてきた。二人で支えて死体を地面に下ろしてやる。横たわった平田の死体はすっかり冷えきり硬くなっていて開いた瞼を閉じてやる事ができなかった。 一通り状況を確認する。 首には布の後だけが刻まれている。足元には土台にしたのだろう大き目の石が何個か転がっていた。 状況は明らかに首吊り自殺。死因は首吊りによる窒息死。 神戸からわざわざ京都へ来たのはこれが目的だったのか。寺に拝んで覚悟を決めてから―――― ボスが大きく溜息をついて見上げるとヤスの顔が青い。吐きこそしなかったが死体から目を逸らし動かない。常の彼らしからぬ反応だった。 「管轄の署に連絡。どうした、何を動揺している!」 再び一喝されてヤスは頷きすぐに踵を返して先程来た道を駆けて行った。その後姿を見送るとまたゆっくりと平田を見やる。 「・・・何も死ぬ事はないだろうが。」 開かれた瞼から瞳孔の開いた眼が覗く。その眼が最後に見た光景は何だったのか。 死体は何も喋らない。 また大きく溜息をつくと煙草に火を灯し良く晴れた空に向かって煙を吐いた。 パトカーのサイレンが遠くから聞こえる。流石にここまで乗り入れては来れないだろうが暫くもすれば所轄の刑事達がやって来る。死体を横目に腰を降ろして何本目かの煙草に火をつけようとした時、首を吊っていた樹の根元に一片の紙がねじ込まれているのに気がついた。 半分程土に埋まっているそれを掻き分けて取り出す。 何折りかされた紙片を開こうとした時ヤスが戻ってきた。後ろからぞろぞろと所轄の刑事たちもやって来る。紙片をコートのポケットに直し立ち上がって走り寄る彼らを迎えた。 死体の鑑識等は京都で処理される事になる。現地の刑事達に今までの流れを説明し京都府警のロビーで二人無言で座っていた。 「もう少し早かったら良かったかも知れんな・・・。」 ぼそりとボスが呟く。それを見て力なくヤスが答えた。 「やはり・・・平田が犯人だったんですね。耕造を殺して、自殺を・・・。悲しい結末ですが事件はこれで解決です。ボス。」 答える彼の顔はまだ青い。口から出される声も抑揚がなく酷く無機質に聞こえる。 「いや、どうかな。」 「・・・え?」 俯いていたヤスが顔を上げる。 ボスはポケットから先程押収した紙片を取りだしてロビーの机に開いてみせた。そこには生真面目そうな硬い字で書かれた文章が何行か連ねられていた。遺書だった。 『借金に耐えられなくなった。取立ての電話音や物音に怯えてこのまま生きていくのは辛い――――』 「・・・どこにも耕造を殺したとは書いてませんね・・・。」 生々しい借金生活の苦渋にみちた文章だったが耕造を殺した事はおろか耕造の名前すら書かれていない。 「そういう事だ。こっちの処理が一段落したら神戸に戻ろう。詳しくは検死結果が出てからだが・・・それよりヤス。」 「はい。」 ボスはヤスの顔を正面から見据えて続ける。 「どうしたお前。死体なら今まで何度でも見てきただろうが。新米じゃあるまいし。」 「・・・はい。」 未だ顔色の戻らぬ部下に眉をひそめる。 「動揺すれば色んな物を見失う。俺が何を言いたいか判るな?」 「・・・はい。」 対するヤスはボスの目を見つめ返す事ができずまた俯いた。 その反応ですらおかしい。失敗するのは構わない。同じ失敗を繰り返さねばいい。行動を萎縮させるような事をあまり言いたくは無い。だが、それに目を背けようとする事はまた同じ失敗を、むしろ致命的な失敗を招く危険性が大きい。それは今後の事件にとっても、本人にとっても忌避すべき事である。 聡明な彼ならばそんな事を改めて言う必要もない筈で、ボスはヤスが顔を上げるのをじっと待った。 だが一向に顔の上げる気配の無い部下にとうとう痺れを切らした。 「慣れろとは言わん。だが刑事として、俺と一緒に仕事をする気でいるのなら大事な時に取り乱すな。何より、真面目に話をしている時は相手の目を見ろ!!」 そう激しく一喝すると背を向け黙り込んだ。 会話はロビー中に響き渡っていたのだろう通りかかった一般人や婦警まで恐々覗くように見ていく。 傍目を気にする余裕などどちらにも無かった。 「・・・・・申し訳ありません。」 小さく答えたその台詞を最後にぷっつりと会話が途絶えてしまう。京都府警の刑事が現状報告をしに来たその時まで一言も互いの口が開かれる事はなかった。 |