・・(10)・・

 曲がり角を越えると港の水平線が姿を見せる。
既に日は沈みかけていて加速度を増しながらその光彩を失っていく。ほんの僅かな残り火が水平線と雲の狭間で色彩を変えて空と海を赤く染め、また闇に消えようとしていた。

高速艇フェリー乗り場に到着するとすぐに車を飛び降り発券場に向かった。売り場窓口には幅のきいた中年女性が座っていて乗客の確認を要請すると当該時間帯の帳面を見ながら応対してくれた。

「若い女の人ですか?一人でねぇ・・・何人か乗ってますけど。」
「この人なんですが。」
「あら、この人。」
聴取時に撮った文江の写真を見せると事務員はすぐに反応を返した。
「見覚えが?」
「この人、切符を買われた後にそこでわざわざ一便見送ってたんですよ。一便に一時間近くもかかるのに変わってるなぁって思いまして。」
「・・・・・・。」
「船に乗ったのは確認されましたか。」
「気がついたらもう居ませんでしたね。仕事中でしたのではっきりとは。」
「そうですか、ありがとうございました。」
受付の女性に礼を述べるとそのついでに洲本までの切符を買う。

何を想い、ここで足を止めていたかは判らないが文江が洲本行きの切符を買った事は掴んだ。ボスは彼女の足取りが自分の予想の範囲内である事にある種の手ごたえを感じた。時刻表を確認してもらうと11時前の便が最終便との事らしい。
「今から向こうに着いてもまだ大分時間はある。着いたら交代で港の見張りと聞き込みだ。」
「はい。」
フェリーの駐車場に車を入れ、二人が客室に上がると船はすぐに出港しだした。

『本日はご乗船ありがとうございます。この船は淡路島洲本行き高速艇です。』

若い女性のアナウンスが船内を流れて足元を軽い揺れが走る。船の行き先は洲本。花隈町から始まり京都まで足を伸ばす事もあったが船に乗って海を渡る事になるとは思いもしなかった。
日はすっかり沈み、夕日と入れ替わりに細い月が一面の黒い空と海を僅かに照らし始めている。

「山川耕造、河村政次、沢木文江、3人の関係か・・・。色々引っ掻きまわされたが俺の勘も鈍ってないらしい。」
「・・・流石ですね。ボス。」
「何だ、気味が悪いな。ひょっとして船酔いか?」

肩をすくめボスは照れくさそうに笑うと到着まで仮眠を取ると言って客席のソファに体を沈めた。ヤスが視線を窓に移すと外は黒い空と海が延々と続いていた。じっと眺めているとその暗い深淵に飲み込まれてしまいそうに思えて静かに瞼を下ろした。


洲本の港に降り立ってから交代で市内の聞き込みに走り回った。
何件か辺りを回ってみたものの本人の影すら見つけられずボスはヤスが見張っている港に戻って来た。丁度フェリー出航の合図が響き大きな船体がゆっくりと出航して行く。

「今日の便はもうあれで最後だそうです。」
「・・・そうか。最終便には間に合わなかったな。」
段々と離れて行く船を見送りながら船着場のベンチに腰を下ろす。
「見つかりそうですか?」
「いや・・・。この付近で写真を見せて回ってはみたが俺も当たり無しだ。来た事は間違いないと思うんだがな。ここには来なかったか?」
「はい。ひょっとしたら入れ違いになった可能性もあるんじゃないですか。」

ヤスの台詞にそうかもな、と呟くと煙草を取り出して火をつけた。
溜息を織り交ぜて煙を吐く。真っ暗な海と僅かな街灯を黙って暫く眺める。
「それにしても判らんな・・・。」
「何がですか?」
「そもそも文江はアリバイが成立していたのに何故この時期に行方が知れなくなったのかがまったく判らん。おこいの話が出てくるまでまったく捜査線上に浮かんでこなかったんだからな。ここにしてもそうだ。あまりに都合が良過ぎると思わんか。」
いつにも増して頭を掻きながら眉間に皺を寄せる。するりするりと抜けていく現実に苛立ち、またそのタイミングの妙に疑問を抱く。偶然で片付けるには都合が良すぎた。

「・・・今回はなかなか上手くいかんな。」
「そうですね・・・。」
弱音とも取れる上司の言葉に小さく返すとヤスは海辺から洲本の町並みを見渡した。
「どうした?」
「いえ・・・別に。あっちとはまた違うなと思っただけです。」
「ああ、静かでいいな。」
もちろん港の周りには様々な店や建物が取り囲んでいたが神戸市内や神戸港の華やかさに比べてこちらは光と音の量が絶対的に違っていた。気温も若干違うように感じる。遅い時間帯の所為もあって潮風が頬を刺して来た所為かも知れない。地元で焦燥とした日々を送っている自分達にとってここの穏やかな空気はある意味新鮮だった。

「さて、もうひと仕事するか。」
「?」
煙草を備え付けの灰皿に捨て、ベンチから立ち上がったボスをヤスが不思議そうに見た。これ以上何があるのかという顔をする部下を見てボスは笑い、部下の肩を叩いて港町の方に促した。
「文江は見つけられなかったが沢木産業の件について知ってる人間が
何人かいるのは確認できた。昔、家政婦だった人がこの近くにいるらしい。」
「・・・・・・!」
「もっとも、少しボケてきてるらしいから昔話を聞ける程度と思うがな。連絡は入れてある。神戸に戻る船も無い事だしそこで話を聞いてから近くで泊る事にしよう。」


「こんばんわ。遅い時間にすみません。先程ご連絡しました・・・」
「ああ、神戸の刑事さんだね。母は奥ににおります。どうぞ。」

古い庭付きの一軒家に足を運ぶと家の主人が二人を迎えた。挨拶を済ますと家を案内されて奥の部屋に通される。足を踏み入れた部屋には背の丸まった老婆が膝に毛布をかけて座っていた。物音に気がついたのか顔をこちらに向けてきたがその眼差しはどこか虚ろで潤んでいた。名を梅と言うらしい。

「お袋、刑事さんが沢木の旦那の話が聞きたい言うて来たんよ。」
「旦那さんの・・・?」
息子である一軒屋の主人が老婆に用件を伝え二人を紹介すると彼女はゆっくりと声のする方に顔を向け懐かしそうに微笑んだ。
「刑事さん?それはそれは。そう、旦那さんのねぇ・・・懐かしいなぁ。」
応答はするものの、まるで上の空で二人の姿はまったく視界に入っていないようだった。息子である主人は二人に振り向いてご覧の通りで、と呟いて申し訳無さそうに頭を下げると静かに襖を閉め、すぐ傍の席を二人に勧めた。

「すみませんねぇ。大分前に熱で目が不自由になってから見ての通りでして・・・話になるかどうか。」
「・・・。」

ヤスがこくりこくりと一人頷く老婆を見やる。
ボスは息子の方に向き質問した。
「ご主人は沢木産業について御存知で?」
「ええ。そりゃあんな大きいとこが潰れたらこの辺じゃあっという間に噂になりますし。・・・酷い話でねぇ。」

主人は妻が持って来た熱いお茶を啜りながら一言一言懐かしむように話し始めた。
「もう10年・・15年以上前やったかな。あの頃沢木産業言うたら知らん者がおらんくらい羽振りのええ会社でしたよ。家と子供さんの世話でお袋雇ってたくらいですから。社長さんもそりゃええ人で世話になりました。しょっちゅうお袋も誉めてたんですが、それが仇になって手酷くやられてもうたんですわ。取り込み詐欺とか言うてたかな。」
「・・・・・。」
「会社は倒産、家も何もかも取られた挙句大きな借金まで背負わされて・・・夫婦で自殺してしもうたんですよ。耐えられへんかったんやろうなぁ。そやけど皆手一杯で誰も助けてやれんかったし、警察も詐欺はともかく自殺までは責任取れんって言って・・・そのまま御咎め無し、ですわ。」
最後の方で主人は二人の方をちらりと見て溜息をついた。

15年程前なら丁度駆け出しの頃だっただろうか。
所轄外とは言えそんな話は欠片も聞かなかったし記録にも無い。気分の悪くなる話と居心地の悪さを腹の底に飲み込んでボスは表情を変えず主人に今日一番の目的を聞いた。
「その子供さんは・・・?」
「二人・・・息子さんと娘さん、あの頃8つか7つぐらいだったかなぁ。写真見せてもらった事もあるんですが何分えろうちっさい時の話で。」
ボスは小さく頷くと文江の写真を主人に見せた。
「この人に面影はありますか。」
「そう、ちょっと黒目がちでこんな感じでしたかな。文江さん?ああ、そんな名前やったねぇ。まぁ・・・綺麗になりはって・・・。」
「この近くで見かけませんでしたか?」
「いや、見てませんなぁ。」

主人は首を捻りあれこれ思い出そうとするが、直接的な関係があった訳でも無いのでそれ以上の事を思い出せる様子は無かった。ボスも諦めてヤスに引き上げの合図を送ろうとした時、それまで隣で上の空だった梅婆さんの口がポツリと開いた。

「ほんま・・・可哀想な子らやった・・・。」
「お袋。」
息子と二人が梅婆さんの方を見ると小さい背がゆらゆらと揺れている。小さいがしっかりとした話し方に頷くとボスは彼女の正面に座り再び話し掛ける。
「沢木文江・・・沢木のお嬢さんの事を覚えてますか?」
「可哀想な子らやった。小さいのに旦那さんも奥さんも死んでもうて・・・ウチは何もしてやれなんだ。皆仲良うてええ人らやったのに・・・。」
本当に聞き逃してしまいそうな小さくて細い声だったが一句一句聞き漏らす事無くしっかりと手帳に記録する。
「残された坊ちゃんとも離れ離れになって一人で親戚に貰われて。寂しかったやろうなぁ。」
「坊ちゃん?彼女のお兄さんですね?」
聞き返すと彼女は首を縦に振り目を潤ませてボスの方を見た様に見えた。彼女の瞳孔にはボスの姿が映っていたが彼女の意識にボスの姿は映っていない様に見える。

「坊ちゃんはどこに行ったんやろう・・・?知らん人に貰われて、それから全然聞かへん。」
「坊ちゃんの名前は?」
「名前・・・名前も変わってもうたなぁ。寂しいなぁ・・・。」
それからまた懐かしいと呟いて下を向くと潤んだ目からポタリと涙が零れ落ちた。今度は俯きながらモゴモゴと独り言を言い始めたが今度はまったく要領を得ない。
昔を思い出を呪文の様に呟いているのだろうか。よく聞けば飯の炊き具合がどうだの庭の手入れがどうのと言っている。ボスはじっと彼女の顔を見ながら聞きいった。後ろで息子とヤスが顔を見合わせて溜息をつく中、梅婆さんは誰に向かってでもなく喋り続けた。

「坊ちゃんには肩にちょうちょの痣があってな・・・。変わってるやろ?よう近所のガキ大将にからかわれてお嬢さんが怒ってたわ・・・。」
「蝶?」
「綺麗なちょうちょの痣やったなぁ・・・。」
懐かしそうに笑う彼女の顔はとても楽しそうで当時の様子が伺い知れた。山川達の詐欺に巻き込まれるまでは本当に幸せな家族だったのだろう。
俯いたままの梅婆さんにボスは軽く会釈をするとそのまま主人に向き直りこれで引き上げる旨を伝え、礼を述べてヤスに立ち上がるよう合図を送った。
「御協力ありがとうございました。行くぞ、ヤス。」
「はい。」

「・・・えっ・・・!」

立ち上がり部屋の敷居を跨ごうとした瞬間、大きな声が二人の動きを止めた。声の主はさっきまで俯き、弱々しい声で話していた梅婆さんで、あまりの大きな声に息子も驚いた顔をしている。ボスが振り返り彼女に聞き返した。
「何か?」
「ああ、いや・・・違う。今の、今の声はどちらさんの声?」
ここに来て、初めてヤスがまともに声を出した事に気付きボスは部下を見やった。

「・・・僕が何か?」
上司の視線を受けてヤスが静かに、常より低い声で彼女に語りかける。その声を聞くと梅婆さんは顔を綻ばせて首を何度も縦に振った。
「ああ・・・そうや、あんたの声や。そうや、ええ声やなぁ。どこぞで・・・どこで聞いたかな・・・。懐かしい気がするわぁ。」
「お婆さんとはここで初めてお会いしましたよ。」
声は優しげだが微妙に冷たい切り返しにボスは眉をひそめ、彼女も何か感じたのだろうか手を頬にあてて首を振った。
「そうか・・・そうやったかな・・・そやけど何か懐かしいなぁ。気のせいかなぁ。でも違うような気もするなぁ。」
立ちすくむ刑事二人と歯切れの悪い母親を見かねて息子が間に割って入った。

「ほら、お袋。刑事さん達が困っとるがな。もう帰りはるんやから煩わせたらあかん。」
「そうか・・・ほな・・・また来てや・・・。」
息子の台詞に渋々といった様子で考えるのを止め、別れの挨拶をすると主人の妻に連れられ寝室に向かっていった。歩きながら時々後ろ髪を惹かれるように振り向く様が酷く寂しげで印象深かった。
「すみませんなぁ刑事さん。」
「いえ、充分ですよ。御協力ありがとうございました。それでは。」
玄関先まで見送る主人に改めて挨拶を済まし二人はこの家を後にした。


一軒家を引き上げ、近くに止めてあった車に乗り込むとヤスが大きく肩を落としてぼやいた。
「びっくりしましたよ。息子さんも大変でしょうね、きっと。」
「そう意地の悪い事を言うな。目が悪い分耳が良いって事もあるだろ。お前、ハコ勤の時にこっちに来てたんじゃないのか?」
「ボスまで何言ってるんですか。誰かと勘違いされたんですよきっと。」
「ムキになるところを見ると怪しいな。若人から老人までか。守備範囲が広いな、おい。」

軽くからかうとヤスは気を悪くしたのか無言で車のキーを回し発車させた。いつもなら文句の一つも返ってくるのにまったく取り合わず完全に無視を決め込んでいる。
「・・・悪かった。おい、冗談だ。そんなに怒るなよ。」
「怒ってませんよ。」
社交辞令的な返事に流石にボスも鼻白む。
嘘付け、と内心毒づくとボスはすぐ意識を切り替えた。

「沢木文江の兄、か・・・。文江に兄がいたんだな。」
「そうですね。」
「詐欺で倒産、両親が自殺、一家離散・・・酷い話だな。殺害の動機としては充分過ぎるが・・・ここからは単なる想像に過ぎんがひょっとしたら今回の件に兄貴も絡んでいるんじゃないかと思う。文江が山川の屋敷で勤めていた事自体何か裏があったとしか思えん。」
車を港に向けながらヤスは黙って上司の推理を聞き続けた。
「文江にアリバイがある以上、共謀して実行犯が兄貴、彼女がその幇助という可能性もある。男の首元を躊躇無く一突きした事も考えるとな。名前だけも判ればいいんだが幼少時に変名してるとなるとかなりやっかいだな。特徴が肩に蝶の痣、と言ってもなぁ・・・。」
「ええ・・・。」
そんな痣などめったに見られるものでは無いが確証も無いのに容疑者の服を片っ端から剥ぐ訳にもいかない。

「明日の朝にでも他を少し当たってみるか。もう遅いし港の近くで泊って帰ろう。」
「・・・はい。」
港近くのビジネスホテルにチェックインすると二人はそのまま風呂にも入らずに床に就いた。


暫くの間室内を占領していた静寂がベッドの軋む音に破られた。ヤスが寝返りを打った所為だったがその瞳はしっかりと開かれている。何度か瞬くと深い息を吐いた。

「まだ起きてるのか。」

隣からかけられた声に驚いて薄暗い中を振り向くと上司もまだ眠ってはいなかった。
「・・・ボスこそ。」
「色々考え込んでたら中々な。」
ボスは緩慢に体を起こすとベッドの上で胡座をかいて座り直す。
「復讐か・・・。」
今まで担当した事件の殆どは被害者が一方的に被害を被っている事例が殆どで今回の様なケースは極めて稀だった。しかも今だ謎に包まれている事柄も多い。

「耕造は沢木文江の素性を知りながら秘書に雇ったんだろうか・・・。」
ふと頭を過ぎった疑問が口を出る。即座にヤスが反応した。
「・・・何故そんな事を?」
「名前もそのまま、面影も残ってる。気がつかない方がおかしいんじゃないか?」
「親だけでは飽き足らず娘すら利用しようとしたんじゃないですか?」

「・・・何故そう思う?」
妙に噛み付いてくる部下にボスは聞き返した。その声に窘められているような雰囲気を感じたのか返って来たヤスの返事は弱々しく小さい。
「・・・・・・何となくですよ。」
「何となくか。有り得ない話じゃないがそう思うと堪らんな。」

死人に口無しと言う。確かにろくでも無い人間だったかも知れないがそこまで腐っていると思うのは救い様が無い気がする。だが沢木の子供達、文江やその兄にしてみればそう感じても仕方が無いのかも知れない―――――
隣でヤスがまた寝返りを打ち、ボスに背を向ける形になる。

「今回の事件は山川も河村もまさに因果応報という事なんだろうな。だが文江とその兄・・・彼らに同情すべき点は多々あるが、それとこれとは別だ。親の仇だから殺して良い道理はない。」
「・・・・・・・。」
「そんな道理が通ったら俺達刑事は用無しだ。」
「彼女達にしてみれば同じ思いだったかも知れませんよ・・・。」
「どういう意味だ?」
小さく消え入りそうな声の中に自嘲めいた響きを感じ部下の方を見やった。自分に背を向けて眠る彼からは返事は返ってこない。間もなく静かな寝息が聞こえてきて会話の中断を余儀なくさせた。

当時の山川や河村を捕らえず野放しにした警察への皮肉だったのだろうか。その皮肉は同じ組織に身を置く自分達にも回帰する。ボスは一軒家での主人の視線を思い出した。

「用無し・・・か。」
時々羽目を外す自分でもやはり遵守すべき法には縛られる。情では許せぬ輩でも法に抵触しないならば必要以上に絞め上げる事はできない。逆に大目に見てやりたくともどうにもならない事もあるのだ。それが『殺人』。
どんな理由があろうとも、復讐であっても人が人を殺める事は許されない。それは『大罪』なのだから。


罪には『罰』と『責任』を。
犯人が信念を持って二人に相応の罰を与えたと思い込んでいるのなら尚更贖罪させてやらなければならないと思う。心有る者ならば尚更。己が関わった以上無意味な結果を残したくは無い。
長年刑事を勤め、様々な事件を扱ってきた中で今回の事件はあまりに特異で否応なしに己の記憶に深く刻まれるのをボスは静寂と暗闇の中で感じていた。


朝食をホテルで取ってすぐにまた市内を回る。沢木産業については概ねどの証言も一緒だった。兄は里子に出され行方、氏名共に不明である事。文江を引き取った親戚も既に淡路にはおらず足取りが完全に切れてしまった事。十何年という歳月の中でこの件が風化しつつあった事はやりきれない寂しさを感じさせた。

「結局、婆さん家でのおさらいで終わったか。」
防波堤の見える港近くに車を止め、助手席の扉にもたれ掛かりながらボスは聞き込みの成果を取り纏めた手帳を捲る。ヤスがボンネットに手をかけながら話し掛けてきた。
「どうしますかボス?」
「帰ろう。これ以上ここに居ても仕方ない。飛び出て来た事もあるし、後は署に戻ってから仕切り直しだ。」
「ボスの場合、行動が突飛過ぎるんですよ。」
「人の事言えるのかお前は。」
「ボスには負けます。」
朗らかな、いつもの小気味良い返しに非難の眼差しを向けたがそれ以上何も言えず停泊しているフェリーを指差した。上司の言わんとしている事を察知してヤスは笑って頷く。
「それじゃ切符買ってきますから待ってて下さい。」

ボスは小走りに切符売り場へ向かう部下をのんびり見送りながら一服しようとポケットから煙草を取り出した。よく見ると中身は残り一本のみ。
「ん。」
これから船に乗る事を思うと心許無い。周りを見渡せば切符売り場とは逆方向の少し離れた所に自販機が置いてあった。車に鍵がかかっている事を確認すると自販機に足を向けた。
目当ての銘柄を二つほど仕込んでポケットにしまい車の方を見ると、切符を買って戻ってきた部下がきょろきょろと自分を探している。その仕草に悪戯心が湧いたのかボスはヤスの死角を選んでそろそろと車に戻った。車を挟んで部下の後ろに回り、軽く驚かすつもりで声をかけようとした時、徐に女性の声が聞こえた。

「こんにちわ。」
小柄なぼっちゃりとした愛想のいい老婆がヤスに向かって挨拶する。挨拶されたヤスもにこりと笑って彼女に返事を返す。
「こんにちわ。お散歩ですか?」
「ええ、寒いけどねぇ。いい天気やから。お兄さんは今から船に乗るの?」
ヤスが手に握っていた切符を見て微笑む。ヤスはフェリーの方を向いて呟いた。
「ええ、今日は帰らないと。」
「そう。どちらから来はったん?」
「神戸です。」
「あはは、それはご苦労さんやね。・・・ねぇ、お兄さん昔この辺におった事ある?」
「・・・いいえ。」
ヤスの表情が瞬時に変わる。老婆の方は首をかしげ、別段気にとめる風でも無く愛想のいい照笑いを浮かべながら続けた。
「え?違う?気のせいやったかな。昔の知り合いによう似てたから思わず帰ってきたもんやとばかり声かけてもうたけど・・・堪忍してな。ほんじゃ気をつけて。」
「お婆さんも、気をつけて。」
小さい歩幅で歩き始めた老婆に別れの言葉をかけるとヤスは彼女に背を向け車に寄りかかった。


「ヤス。」
「ボス、どこ行ってたんです。」
声が聞こえた方を振り向くと車を放置して姿をくらましていた上司がすこし先からブラブラと歩いてくる。ヤスは腕時計を見て待たされた時間を確認すると大袈裟にふくれて見せた。それを見てボスは言い訳するようにポケットに突っ込まれた煙草を見せて仕方無さげに頭を掻く。
「・・・煙草が切れたんで買いに行ってた。待たせて悪かったな。」
「ちょっとくらい我慢しましょうよ。どうせ船の中では寝るんでしょう。」
「何言ってやがる。物が無いのとあえて吸わんのとは全然違うんだぞ。」
「はいはい。」
上司の子供じみた主張に仕方がないとおどけて見せたヤスの顔はいつもの柔らかい表情の彼で、つい先程との違いが一層色濃くボスの目に映った。昨晩の件にしても然りで、むしろここ洲本に来てからどうも様子がおかしいように思えた。

「ヤス・・・。」
「はい?」
「・・・いや、帰ってからでいい。」
口火を切っておきながら黙り込んでしまった上司をヤスは訝しげに見ていたがすぐに気を取り直しフェリーの駐車場に車を進めた。


家政婦だった梅婆さんの台詞。
先程のやりとり。
数日前聞き流したおこいとのたわいも無い出身地の話を思い出した。
そしてふと、ある疑問が頭に浮かぶ。


『―――お前、本当にここに、洲本に居たんじゃないのか?』

いつもの様に軽く聞いてみれば良いだけの事なのにその台詞が喉から出せない。
特別気にかける事でもない筈なのに脳裏から離れようとしない。
誤魔化す必要など有り得ないのに。

ボスは自分の脳裏に浮かんだほんの小さな疑問が何故か恐ろしく冷たく感じ無意識の内に忘却の彼方に追いやった。





























































































































































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